子どもには最高の教育環境を【日本の裏側から人生を振り返ってみた】
現在、南米パラグアイに移住している私が32年の人生を振り返ってみました。教育の大切さを紹介していきます。
子どもには最高の教育を
ふと人生を振り返ってみて、何が私の人生のターニングポイントだったかを考えてみました。
高校時代
私はとにかく勉強が嫌いで、高校の成績は体育以外の教科が全て赤点、順位も言うまでもなく1年〜3年まで全期間最下位(320人中320位)だった。
もちろん、欠席者や退学者がいるので多少の変動はあります。
先生には、高校始まって以来の赤点の数と称賛?されるほどだった。そんな私が大学に行ける訳もなく、浪人することとなった…。
京都の代々木ゼミナールへ
さて、浪人が確定しどう勉強しようと考えた時、私と両親が京都好きだったので京都で勉強することに。そんな安易な理由だけで京都行きが決定。実に私の家族らしい。
18才の時、初めて親元を離れて代々木ゼミナールの京都寮に入る。初めての寮生活は、あまりの寂しさで毎日泣きそうになったが何とか耐えた。
代ゼミの寮生のほとんどは、各県の優秀な生徒が集まっていた。(学費免除の特待生など)京大や医学部などや地元の国立大学を目指す生徒がほとんどだった。間違っても私みたいな全教科赤点男はいなかった。
そんな環境の中、次第に友達ができ、人生の転機点を迎える。
彼らは深夜になると、見回りの警備員から隠れて仲間のいる部屋に集まっていた。
そこで、日本の将来を真剣に議論しあっていた。18才の少年達が…。私にとっては異次元の人達であり、心底尊敬できる学友だった。
次第に私の部屋でも深夜の討論会が開かれるようになる。集まっていたメンバーは、後に東北大学(経済)に入るA(1番の仲良し)、徳島大学(医)に入るB、東京学芸大学(教育)に入るCら数人と私日本大学(法)。
周りの環境は人を変える
私の高校時代は、友達との会話の99%女の話。
- どうやったら彼女ができるか。
- どうやったらモテるか。
- どこに可愛い子がいるか。
主にこの3つの会話しか私の記憶にない。
しかし、予備校で初めて世間で言うエリートに会い私は次第に変わっていった。勉強が好きになり、彼らに1つでも勝ちたいと思い英語だけに縛って毎日勉強に明け暮れた。その後、基礎が全くできなかった私は彼らと同じように1流大学には入れなかったが、大学院時代にTOEIC835点を取り、英語も問題なく話せるようになる。高校生の時、1番嫌いな教科が英語だったのに関わらず…。
友人A(東北大学卒)
当時1番の友人だったAは大学生の間に公認会計士の資格を取り、みずほ銀行に入行し、現在は投資部門で働いているようだ。
顔は私が会った誰よりもイケメンで、性格も本当に良い。よく手料理を持って来てくれた。さらにスポーツ万能でサッカー部のキャプテンだった。
予備校に行かなかったら一生会うことがなかっただろう…。
人生を振り返って
もし戦後直後に生まれていたら、私達は間違えなく学生運動に参加していただろう。それほど熱い予備校生活だった。日本赤軍に入っていた可能性もある。
その時、友人Aと誓い合ったのは、私は政治面から、友人は経済面から日本を変える!だった。私は彼との誓いから外れて?しまったが、南米パラグアイから少しでも何かを発信していこうと思う。
周りの環境は人を変える!!!
日本の南青山児童相談所のニュースを見た時、ふと人生を振り返った。
まだ親になったことはないが、将来の子どもには私の両親が与えてくれたような最高の教育環境を与えたい。
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私が作っているパラグアイの動画です。良かったら見て下さい↓
【Vistazo a Paraguay】Recorriendo Asunción y Central パラグアイをダイジェストで紹介!!!
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